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2010年12月31日 (金)

インディアン・パシフィック ~South Austraria2000~ 3

車窓には相変わらず荒野と地平線が限りなく広がっている。14 映画「マッド・マックス」の世界がそこにあった。遠くに湖が見えた。蜃気楼だった。その時、カンガルーを発見。3頭こちらをむいている。親子だろう。気がつけば、ソファから身を乗りだしていた。
 時は過ぎ、退屈なのでラウンジへと移動する。紅茶を飲み、日が傾きかけた頃、ようやく木々の姿が増えはじめた。16 やがて、夕食となる。今日はポークソテーをチョイスした。前菜のサーモンが実に旨い。横から声がかかった。「もうすぐカルグーリにつく。ここではナイトツアーがある。お前も参加するか。」カナダ夫である。折角なので、ぜひ参加してみる事にした。夕食も終わり、カルグーリに到着。ホームに降りれば、多くの乗客たちが同じツアーに参加する為、バス停に向かっていった。私もその流れについていった。バスは2台に分乗して町へと向かった。カルグーリは、金の発掘で発展した町である。町の中はウェスタンの風景そのものである。町を抜け、郊外の金鉱へと向かう。金鉱は、ダムの建設現場の如く、この深夜にもかかわらず、採掘作業が進められている。15 空を見上げると、たくさんの星に手が届きそうな程輝いていた。バスツアーも終わり、列車内でシャワーを浴びる。汗を流して部屋に戻る頃、列車は動き出していた。全ての明かりを消し、ブラインドを開けて、流れる夜の車窓と満点の星空をいつまでも眺めていた。

朝、目が覚めると車窓には牧草地や畑が広がり、羊たちが餌を食んでいる。昨日までとは違う、牧歌的な風景である。
かつて勤めていた会社に、A子という女性がいた。どことなく愛らしいの顔立ちとおっとりとした性格は、男性社員からの人気者であった。そんな彼女が、配置換えされてきたばかりの私に親しげに話し掛けてきた。最初は驚いたが、やがて打ち解けるようになっていった。しかし、私にとっての幸せな時間はそう長くは続かなかった。やはり妬まれていたのだろうか。翌春、私に下った辞令は、地方転勤であった。そんな宣告を下された私は、その会社と決別した。それから間もなくして、彼女からの便りをもらった。この地からであった。今私の見ているこの風景は、当時の彼女の瞳にはどんな風に映っていたのだろう。その後もA子とは年賀状などで連絡をとりあってきたがそれも結局、数年前に私からの便りを最後に、途切れた。
恋というのは、儚いものである。
 「コンコンコン」ノックをしたのでドアを開ける。アンドリューだった。相変わらずタイミングよくやってくる。
 「グッドモーニング・サー。よく眠れましたか。」底抜けに明るいこんな彼も恋人に振られたときは落ちこむのだろうか。そんな時の顔を見てみたいものである。
 朝食は、スクランブルエッグをチョイス。この顔ぶれで食事をするのもこれが最後だ。
 車窓には、人家が少しずつ見えはじめている。目的地も近い。
 食事も終わり、窓の外をみると、短いホームと人影が見える。シティトレインだ。そこの線路はやがてこの列車の足元に吸い込まれていく。
 席に戻り、荷支度を整えている頃、それまでゆっくりと住宅地を走っていた列車はその歩みを止めた。イーストパースに終着した。BGMからは、「イマジン」が流れていた。
 アンドリュー車掌に見送られてホームに降りる。17 ホームにはたくさんの乗客たちがいる。出口に向かう途中、メルボルン大男に「元気でな。気をつけて旅を続けろよ。」と声をかけられ、その他知り合った友人たちからも握手を求められた。名残惜しくなり、目頭が熱くなってしまうのは、なぜだろう。みなそれぞれの思いを胸に、散っていった。

18  パースシティ駅から、トランスパースというシティトレインでインド洋に面した町、フリーマントルへ向かう。降りそそぐ太陽の下、軽快な足取りで列車は走る。30分ほどで終着。潮の香りがする。駅を出ると、そこは19世紀の建物で整然としている。19 英国の様である。しかし、この強烈な太陽は、英国にはない。20 そんな町を抜け、視界には青々とした海が広がる。21 インド洋だ。さらに足を進め、砂浜からサンダル履きのまま海に足を入れる。ここで私の旅は終わりを告げた。海水は、完治していない皸にしみる、手厚い祝福であった。

 夕刻、ホテルの屋上にある小さなジャグジーで、長旅の疲れを癒している。パースでは、日本人を多く見掛けたが、ここにはいない。左側には白人夫妻。右側には青い目の若い女性2人組、5人で身を寄せてスワン川に落ちる夕日を一様に眺めている。20世紀最後のサンセットである。ジャグジーを出るとき、私は皆に声をかけた。
「ハッピーニューイヤー。」

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2010年12月30日 (木)

インディアン・パシフィック ~South Austraria2000~ 2

 時間は過ぎ、「2ndシッティングの皆様、朝食の用意ができました。」待ち構えたように食堂車へ。他の3人は席にいた。「よく眠れたか?頭痛くないか?ははは。」カナダ男がそう心配してくれた。意外と気を使ってくれている。車窓には、ようやく人工物が見えてきた。ゴトゴトとポイントを渡り、徐行をはじめた。クックについた。タンカーや同じ型の客車が見える。救援用であろう。真っ黒に日焼けをして万一に備えている。我慢の出来ないこの日本人は食事も早々と切り上げ、列車の外に出た。10  9 8駅は土産物兼売店が一軒あるだけで、他に何もない。列車を見ると、燃料や水を補給している(写っているのは当時の管理人。今もあまり変わっていない)。13 駅の片隅に小屋がある。11 トイレのようなその建物は、鉄道建設時に強制労働された人たちのいわゆる「タコ部屋」の跡である。過去の鉄道建設において人権無視の労働はどの国も同じであることを痛感した。中に入ると、日本語の落書きだらけで目を覆いたくなる。折角来たのだから何かを残して帰りたくなる気持ちは分かるが、何もこんな所に書くことはないのだろう。実に恥ずかしい。12_3
 1時間ほど後に列車は発車した。ここでシドニー行きの列車と交換した。

つづきます。

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2010年12月29日 (水)

インディアン・パシフィック ~South Austraria2000~ 1

長らくしまっておいた郵便物がある。
ある人から旅行記の依頼を受け、作成したものである。
投函したものの、残念ながら雑誌の休刊により没になり、返送されてきたものだ。
消印は13.7.9なので約10年ぶりに封を切った。
Photo 原稿とフロッピー、そして写真が入った封筒が入っている。

今から10年前に書いた原稿を読み返すと、自分で書いたものなのか?と思うほどすばらしい文章である。
いろいろ考えましたが、氏名等を伏せる以外はほぼ原文のまま掲載します。
では、まいります。

 師走の東京は北風が強く、肌は乾燥し、手・足・唇に皸ができとても痛い。そのせいか、
実際の気温よりもさらに寒く感じる。20世紀も終わるのも手伝ってこの多忙の中、無理を承知で私はオーストラリアのシドニーへと飛んだ。
 シドニーからアデレードへは飛行機で、そこからインド洋に面したパースまでは長距離列車「インディアン・パシフィック」を利用する、大陸横断の旅である。
 インディアン・パシフィックはシドニーとパースの間4,352kmを走る、真の大陸横断列車である。この2000年は誕生30周年。私と同い年である。
 私自身、初めての南半球であり、見知らぬ土地でのけがや不意な病、あの赤い大地の上で生活する人々はこの日本人を受け入れてくれるだろうか。不安を乗せて、航空機のシートに身を沈めた。

 私が初めて海外に出たのは今から丁度10年前、Oという男と2人で香港に出掛けた。別に親しい間柄でもなかったが、貿易会社に就職が決まった彼は、英語がまったく話せなかったから私を誘ったのだろうか。香港で突然のラブストーリーを期待していた彼と、純粋に旅を楽しみたかった私とで喧嘩が絶えなかった。今となっては良い思い出である。
あれから10年、英語を話せぬ貿易マンは、少しは出世しただろうか。

 アデレード空港に到着し、タラップに足をつけた途端、強烈な太陽に目が眩んだ。この時の精神状態が一番孤独で辛かったが、バスをつかまえ、市の中心部に向かった。
1 アデレードは南オーストラリア州の州都であり、早くから英国文化を取り入れ、見渡せば、英国の香り漂う街である。街外れにケズウィック駅がある。2 そこでチェックインをすませ多くの乗客と一緒に列車を待った。やがて、インディアン・パシフィックが入線してきた。
 ホームに上がると、重厚なステンレスボディの車体を夕日に輝かせて、ボディサイドにはイーグルの絵があしらわれている。3 最後尾には自動車運搬車が連結されている。まるで陸の豪華客船だ。4 先頭に機関車がゆっくりと連結されてきた。ディーゼルエンジンの音も力強いそのグレーの車体は、まるで装甲車を思わせる。5 全ての準備が整い、いよいよ発車だ。
 発車してまもなく、デッキに立つ私に背後から、
「はーい、ミスターT。食事は2回にわかれています。1回目にしますか。それとも2回目?」と声をかけてくる男がいる。アンドリュー車掌である。黒縁メガネをかけた、どことなくクラーク・ケントにも似た明るい好青年である。私は乗車前に軽食をとっていたので、迷わず2ndと伝えた。彼は私にシィッティングカードを手渡し、忙しそうにその場を立ち去った。ところでミスターTとは乗車券に書いてあった私のイニシャルである。なんだか少し前の弱い覆面プロレスラーを連想し、あまりありがたくない。
 2晩世話になる部屋を見ると、広くはないが、ベッド、洗面台、トイレを装備し、BGMも流れている。コーヒー、紅茶は飲み放題であり、蛇行する通路を行けばシャワー室もある。快適な旅を約束された。
車窓は、郊外を抜けたらしく、農場が広がる。6 丘の向こうに夕日が沈む。並行する道路をロードトレインという車が走る。これはトレーラーの後ろに更にトレーラーを連結している。まさにトレインだ。やがて夕日が沈み、進行方向の空から少しずつ闇が訪れる。完全に暗くなるまでかなりの時間が流れた。感動的な1日のクライマックスである。
 ところで日頃の生活は、目が覚めると朝であり、知らないうちに夜になっている。その夜も人工的な光でまるで昼間のように明るい。目に入る物全て人工物であり、耳をすませばどれも自然界には存在しない音である。確かにモノに溢れた日本は豊かであり、そんな日本を誇りに思うが、果たして本当に豊かなのだろうか。

 やがて、「2ndシッティングの皆様、お待ちどうさまでした。」とのアナウンスが入る。早速食堂車へ向かう。日本以外の人と席を共にして食事をするのである。さながら英会話教室の様であり、少々ドキドキである。
 案内された席は先によく太った夫婦が座っていた。挨拶を交わし聞くと、カナダからやってきたとのこと。すぐに私の前に大男が座った。こちらはメルボルンからやってきたそうだ。ワインを注文する。言葉の壁があるので話が進みにくい。しかし、親切に気を使ってくれた。メイン料理は、勧められたカンガルーのステーキを挑戦した。食べ終わったころ。カナダ婦人に「初めての肉でしょ。美味しかった?」と料理の感想を聞かれた。少々酔っていた私は、「口にあわなかった。」と半ばジョークのつもりでいった。メルボルン大男がむっとした顔になった。悪い事言ったかな。
 話は進み、メルボルン大男が私のグラスにワインを注ぐ。ステーキの件もあり一気にいただく。カナダ男も続いて注ぐ。それもいただく。このテーブルは忘年会となってしまった。列車は夜更けのポートオーガスタに停車していた。そんな私をカナダ婦人が私を心配してくれた。最後にどぎついのを男3人で乾杯する。その後の記憶はない。

 7時42分に目を覚ます。ブラインドを開けると赤茶色の大地の上に木が点々と生えている。しばらくして朝食を取りに食堂車へ足を運んだが、なぜか支度中であった。ウェイトレスにラウンジで待つよう言われ、「?」のままラウンジへ足を進める。時計を見ると、まだ6時50分であった。時差が生じたのか、あるいはまだ昨日の酒が残っているのか、肩を落として部屋に戻る。部屋の鏡に自分の姿が映った。不精髭の生えたその顔は、飢えた獣の様だ。いずれにせよ、この時差の原因は、今になっても解らない。
 まもなく、「コンコンコン」とノックされた。ドアを開けると、「グッドモーニング・サー」アンドリュー車掌がモーニングコーヒーを差し入れてくれた。ありがたい。

つづきます。

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2010年12月27日 (月)

国分寺・MA-RA-CHAO

辛い一年だっただけに、辛い食べ物で締めます。
Mise 北口「はばか~る」カレー店となり。
Men 麻婆麺と白い御飯セットで650円。
感想:「かなり辛い」「むせる」
辛いもの好きな人はお試しあれ。

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2010年12月24日 (金)

470.8キロ 本年のおさらい

いよいよ今年もあと一週間で終わる。
毎年この時期にネガティブな話題を提供しているが、今回はちょっと話題をかえてみます。
あ、写真はありません。漠然とだらだら書きますのでスルーしてください。
基本的に年の初めにその年の暮れの事など考えたりはしないだろうが、正月の時点で、まさか「こんなになるはずじゃ(悪い意味で)」という一年だった。


住む日が少なくなったので賃貸に出した。自由がだいぶ減った。
お金・投資
昨年暮れにドル建て預金を開始。あれよあれよという間に円高に。結果今現在大損。

9月に他界して今は数枚の写真を飾っているだけ。
模型・CDなど
持っていてもしょうがないと思ってだいぶ処分。ちょっぴり後悔。
スポーツ
気に入って長年続けていたバーベルトレーニングが廃止。
プライベートな人間関係
当たり障りなくうまくやってきたはずだが・・・

そりゃそうだ。前年にやり残したことをただやっただけの年だった。

とにかく失うものの多い一年だった。
せめてこれだけは、とばかり目標を達成したのが表題である。
中央線(厳密に言うと違うが)東京~松本235.4kmの往復と同じ距離を一年かけて完泳した。
とはいえフリー遊泳の日はただ距離を稼ぐが如くネチネチやっていた訳ではなく、ちゃんと自分なりに内容を決めてきっちり練習していた。
始めた1月頃は女性数名を含む結構な人数(当然こんな目標立てているとは言っていない)だったが、トラブルはなかったのに最終的には単機というか空気輸送という「ぼっち」になっていた。このあたりは何かの機会に話します。
ここで振り返ってみた。
 1月末  36.1km 国立~立川間
 2月末  67.8km 藤野~上野原間
 3月末 106.9km 甲斐大和~勝沼ぶどう郷間
 4月末 153.5km 新府~穴山間
 5月末 204.0km 上諏訪~下諏訪間
 6月21日 松本到着
 6月末 247.2km 広丘~塩尻間
 7月末 289.9km 富士見~信濃境間
 8月末 332.2km 竜王
 9月末 365.2km 甲斐大和~笹子間
10月末 410.6km 相模湖~高尾間
11月末 445.7km 武蔵境~三鷹間
12月19日 東京到着
おかげでどうにか大きな病気せずにここまで過ごせた。しかし月平均40kmはきつかった。
孤独な達成感と空しさが同時に来た。

さて、来年は「何線」にしようか。

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2010年12月21日 (火)

事故られた

自宅で使用している自転車を買い換えた。
じっさい一年半も使用していない。
4357 写真のとおりまだまだきれいである。
しかし、事故によりまっすぐ走らないので危険であるのでやむなく廃車となった。

でも良く見るとフロントフォーク曲がってますね。

木曜日朝、連雀通りの車道左側を後続の車に注意しながら走行していた。
左側から、婦人の乗る自転車が突然飛び出してきて、ブレーキ間に合わず正面から衝突した。

「あ゛!」「(急ブレーキ!)」

4358 「グシャ!!」

激しいクラッシュであったが、とりあえず怪我がなかったのは幸いである。
相手は「すいません」と謝るばかり。こちらも急いでいたので、見た目なんでもなかったので終わった。
外れた部品を取るとき、その走り去る相手の後姿をみると、何事もなかったように見受けられた。

ちょっとおさらい。
その壊れた自転車をその場所に置いて検証。
4359 この塀で見えないところを車道と歩道の区別のないところを右折。
交通量も多い。完全な逆走である。しかもノーブレーキで。
どんな危険が待ち受けているか考えれば、相当な度胸が必要だ。

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2010年12月17日 (金)

鳥もつ煮・奥藤

甲府市内のそば店。4348

本年度グルメチャンピオンに輝いた鳥もつ煮は食べて帰りたい。
先ほど別な理由で尋ねた交番で、気がつけばこの話題になっていた。
そのお巡りさんに勧められたからには間違いないだろう。
4346 おろしそばセットです。左上がそれです。
4347 アップにします。おいしそうでしょう。
いわゆる、あの、焼き鳥のレバーを甘辛いかなり濃いタレで煮込んで、ゆで卵の黄身の部分を入れたような感じ。
伝わったかな。
そばともよくあいます。

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2010年12月16日 (木)

甲府の保存機関車

笹子トンネル建設工事に使用された黎明期の内燃機関車が駅の近所に保存されているので探してみた。
プリマウス製のとても好ましいスタイルのガソリン機関車なのでとても楽しみだ。
おおよその場所はわかるのでそちらに歩く。
「・・・・・」
どこにも見つからない。
約30分後、駅前コーヒー屋隣の交番に尋ねる。
お巡りさんはとても親切だったが、結局わからずじまいだった。
町を散策しながら、ケータイに「保存車放置車」と入力して調べる。
建設会社「長田組」の庭先にあることがわかった。
引き続き「甲府 長田組」と入力。
正式な所在地がわかったものの、不安な文面が書いてあった。
たどり着いたのは、ここ。4345
同じところをぐるぐる回ってここは3回くらい通ったはず。
めでたくこれで今日の探し物は終了した。

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2010年12月15日 (水)

タリーズコーヒー

4356 コーヒーが飲みたくなった。
4342 そういえば今日まだ何も食べてなかった。
モーニングの看板に吸い寄せられるように入店。
女性アルバイト店員にジャーマンサンドセットとやらを注文。コーヒーのサイズは同じ値段で選べるが、強制的にLサイズにされてしまった。
480円は隣のMナルドの2倍以上の値段である。
「コーヒー」を忘れられたか心配になるほど待たされたあげく、持ってきてもらったのがコレ。
4341 「でか!!」

Mナルドの2倍はあるだろう。しかし旨い。水がよいからか?
この創業者はたしか議員さんでしたっけ?
若くして成功を収めたのはそれなりの秘訣があるのか、この巨大マグカップを見ながら考えてしまった。

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2010年12月13日 (月)

勝沼ぶどう郷

ちょっと出かけたくなった。
4332 まだ薄暗い八王子駅。寒い。列車に乗車後、速やかに発車。
4333 大月も近い。車窓は霜で白い。
4334 寒さで躊躇したが、下車した。
思ったほど寒くはなかったが、でも耳が痛い。
4351 しかしホームからの景色。寒さも忘れる。
4355 保存されているEF64-18。うろ覚えだが奥多摩石灰貨物を牽いていたのを見たことがある。
4353 まん前から撮ってみた。
4337 「甲」が泣かせる。
横の階段を上れば、
4338 トンネル。でも9時からなので柵がしてあった。
4340 次の列車で勝沼を後にしました。

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2010年12月 9日 (木)

カリーショップC&C

このチェーン店を紹介するの忘れてた。
京王グループのカリー専門店。京王沿線を中心に店舗があります。
一時期、大きな話題となった頃「新宿店と他店とは味が違う」とも話題になった。
3733 そういう理由で新宿店で試す。
新宿店オリジナルのポークパティほうれん草。
3732 500円で満腹。
府中や吉祥寺(閉店)で食べたのと特に変わらなかったような・・。

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2010年12月 7日 (火)

目が鱒

普段、オフタイムは何をやっているのか?
週5~6日間「水泳」をやって体つくっている、と遂にカミングアウト。
決して「模型いぢってニタついてる」訳ではない。
これだけは言っておきたかった。

土曜日夜、ここに宿泊。
Toyokoin 東横イン津田沼。国分寺から一時間少々という近さである。
Hotel せま!!でも寝るだけだから気にならない。
Bus 翌朝バスに乗り、新習志野へ。
Kokusai 駅前のプール。
ここで目ガロス鱒ターズ(この略がタイトルyo。ちなみにヒットしない様に当て字で)なる店舗対抗試合に出場した。
開門の頃には行列は数百人になった。所属する吉○寺は、

Seki ゼロ。自分が一番乗り。
やる気のなさ?を身をもって感じた。
やがて人が集まり、プログラムを貰う。
Prgrmこれ。開けば、
Nakami 自分の名前がデカデカと!またまたカミングアウト。
モザかかっていますが、10回連続出場という記録であった。
「誰にでもできる」が、なかなか出来ないことでもあるので大変な名誉である。
これを成し遂げられたのも、転勤の少ない会社と親のおかげである。

ただ、一部の人にとってはとても不名誉なことであろう。
というのはもう一人の受賞者は、実業団上がりの人で、定年を過ぎた今でも現役で先日もスウェーデンで試合に望んでメダルを取ってきたという実力者である。
こういった書面に名前を残すのであれば、せめて地区大会レベルの人物であってほしい。ところが、何の実績もないどころか最も遠い存在の
「ヲタ」
に持っていかれた。
何度か阻止されんと嫌がらせと思われる行為も受けたが、どうにか耐えてこれに至った。
Syoujou 賞状もらった。記念品もらった。
でも性格上、オゴることはしない。

さて、試合はというと、
2ーIM(200m個人メドレー)という恐ろしくドMな種目(だけ)に出場。
3分8秒だったorz
今現在、結果は来てないが「2位か3位」らしい。
その後帰ってしまったが、後日メンバーの女性(この人美人アルヨ)に聞くと大盛上がりでチームは4位に入ったとのこと。

ちょっと毒を吐いてしまったことに反省。
今年は辛さ連続の一年であったが、この日はさわやかな秋晴れであった。

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2010年12月 6日 (月)

国分寺・味一

国分寺駅北口すぐ。
3725_2 この看板が目印。
3724 カウンターだけの8席です。
3723 ラーメン500円。かなりこってり系でした。
待ち時間が短かったのはGJでした。

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