眠れない夜 2
眠れないままに午前3時になってしまった。昭和59年の今頃。ラジオから「歌うヘッドライト」がオンエアされています。
単なる運動不足であろうが、悶々としてもしょうがないので時刻表を開いて前の年に松本まで乗車した夜行鈍行を思い出しながらトリップをしています。
甲府で1時間停車。ドアを手で開けホームに降りる。
ホームは乗客たちが降りて時間を潰している。タバコを吸う人、自販機で飲物を買う人。缶蹴りを楽しむヤングな兄さん姉さん・・。
最後部では荷物、郵便物の受け渡しをやっています。その横の真っ暗な身延線ホームにワインレッドの新しい電車がやはり荷物車を後ろにつけて朝を待っています。
時計の針は3時20分。時刻表に目をやると9号は塩尻にいます。11号は上諏訪を発車しています。先ほどすれ違った上り便はもうすぐ八王子に着きます。
ラジオから「矢切の渡し」「さざんかの宿」やはり演歌中心で、時たま歌謡曲がかかります。「トラック野郎」が流行っていた頃のドライバーの好みでしょうから仕方ありません。
前日の夕方18時10分に長野を発車し、一晩走り続けた上り夜行442Mは3時46分に立川を発車しています。武蔵小金井を56分位に通過。窓を開け、耳を澄まします。
遠くにジョイント音が聞こえます。この音で間違いないでしょう。
4時を回っています。早い出発のアルプスは松本に近づいています。13号は上諏訪です。客車の57号は小淵沢にいます。441Mは甲府を出ました。
なんだか空しくなってきました。そろそろ休もうか、と電気を消す。が、窓の外が青くなっている。
もう一度窓を開ける。東の空がうっすら明るくなってきた。西の方はまだ真っ暗。ヒヨドリが鳴き、少し離れた幹線道路を時折トラックが通過する。
441Mは韮崎あたりでしょうか。さすがに意識が無かったようで記憶がありません。
時間が経つにつれ、じわじわと明るくなってきた。赤く染まる雲。涼風の中を雀が飛び、朝刊を配達するバイクが走り回る。
東から光が差し始め、西の空も青くなっている。毎日繰り返されている当たり前の風景とは知らなかった。
気がつけばアルプス13号も朝日を浴びながら松本に到着するころだ。午前5時、深夜放送も終わりを告げ、一日が始まりました。
臨時の9631列車は走っていれば岡谷です。終着辰野も近いです。この列車は夜行425列車が電車化され441Mとなった夏から臨時で復活したと、鉄道雑誌の乗車レポで読んだ事があります。
臨時だけに接続が悪く、87年のGWあたりが最後だと思います。
441Mは小淵沢です。小海線に乗り換える山男たちが下車してゆきました。列車もここから通勤通学列車になり、まったりと松本、長野へと走り続けます。
さて、思い出もここまでにして寝ましょうか。
あっという間に起床時間。たった2時間しか寝ていないから体が重く吐き気がする。今日が日曜日だったらと恨めしく思いながら登校したのはいうまでもない。
その日どんな授業をどういう状況で受けたのは当然覚えていないが、10時3分、2時限目の授業中に441Mはようやく長野に終着。
そして数時間の休憩の後新宿に戻ってゆく。そして深夜再び長野へ・・。
夜行列車への思いが高まったのはいうまでもない。
しかし441Mは新宿から松本まで8時間かかってますね。この10年後にはスーパーあずさが同じ区間を2時間半で走破しています。
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コメント
小さい頃は、野辺山に行くときは441M、白馬方面に行くときは413Mをよく使っていた記憶があります。
新宿の中央線上り快速ホームから逆向きに出発する夜行列車たちに萌えていました♪
西荻窪や西国分寺辺りで、前の電車につっかえてダラダラ20~30Kmくらいで走る車内でゲンナリしていました。
立川を過ぎると快調に走り出すのを知っていたので、「それまでのガマン」と耐えていたっけか。
夜中の松本は新宿と名古屋から来る列車で賑わってましたね。
「くろよん」の167系に興味津々でした。
「ちくま」の客車は憧れだったなぁ・・・
あと、この時代のダイヤだと411Mにクモニ83が連結されていたんではなかったっけ?
車掌のアナウンス越しに釣り掛け音が聴こえて「萌え☆」だった。
辰野で飯田線一番列車に乗り換えて豊橋まで行った時はキツかったぁ~。
「信州ワイド周遊券」を使い尽くしていたなぁ、あの頃は。ハーッ!
そういえば当時「眠れない夜」って歌ありましたよね?
ヒデキか誰かがカバーで歌ってたよなぁ…。
投稿: ともぞう | 2007年5月29日 (火) 13時49分
新宿中央快速線上りホームから下り夜行列車の出発。411Mに荷物電車。それと「眠れない夜」の西城秀樹。全て自分の記憶とビンゴです。ヒデキ感激です。
何度も夜行列車に乗られたようで...。その頃から飛行機・新幹線やら特急や車にバス...移動手段が多様化しはじめ、夜行列車はある意味ダサい乗り物だったかもしれません。でも今となってはそんな経験こそが貴重な「財産」と言っても過言ではないでしょう。そう思います。
このネタ元、当時の「班ノート」なるものに書いて提出したら担任が感動してくれた事もあります。
現在、暇を見ては続きを製作中です。昔の旅メモを探してきます。
投稿: 二足歩行@やす | 2007年5月29日 (火) 14時25分